今が楽しいには2つある⁉︎
- 今を一生懸命楽しく生きる
- 今さえ楽しく生きられれば良い
皆さんはどちらだろうか。
どちらにせよ生き方を決めるのはその人の価値観であり、生きざまなのでどちらも間違いではないのかもしれない。
しかし、昔から前者を勧める名言や教えが多く語り継がれていることは無視できないだろう。
ここでアリとキリギリスという童話を紹介したい。
アリとキリギリスから学ぶ
あらすじはこうである。
ある夏の間、アリは来たる冬に備えて食糧を蓄えるため働き続けた。一方キリギリスはバイオリンを弾き、歌って過ごした。やがて冬になり、キリギリスは食べものを探したが見つからず、最後に食べものを分けて貰おうとアリに乞いた。アリは『夏の間、歌って過ごしたのだから冬も踊って過ごせばどうだい?』と追い返し、キリギリスは飢え死んでしまう。
この物語には続きがあるのです。
キリギリスは最後に『もう歌うべき歌はすべて歌った。君はぼくの亡骸を食べて生き残れば良いよ』と言った。
日本では改変した以下のものが一般的である。
アリに乞いたキリギリスに
『私は、夏の間せっせと働いていた時、あなたに笑われたアリですよ。あなたは遊び呆けて何もたくわえていなかったからこうなったのですよ。』と食べ物を分けてあげ、心を入れ替え働くようになった。
また別の改変では
『どうぞ、食べてください。その代わりキリギリスくんのバイオリンを聞かせて下さい』と言ったのです。
この物語は多くのことを考えさせてくれる。それぞれの感じ方を大事にして欲しい。ここからは私なりの解釈を述べる。
後先考えずに過ごすと後で困る
第一に、後先考えずに過ごすと後で困るという事である。自らの行いは全て自分に返ってくる事を忘れてはいけない。
“今さえ良ければ、楽しければ…”は先の事を考えての事だろうか。先に起こる結末が本当に自分が望み、自分だけで責任が取れるものか考えた上で行動して欲しい。人は一人では生きられない生きものである。必ず誰かに影響を与えている事を決して忘れてはいけない。
幸せの尺度は自分次第で変わる
第二に、幸せの尺度は自分が決めると言う事である。キリギリスは不幸な結末なのだろうか。キリギリスにとって夏の間、遊んで暮らす事が大切で無かったとは言い切れないのだ。自分の人生の主人公は自分自身であり、その人のものである。悔いのない人生を自らが決め、誰のせいにもしない事が大切である。余命わずかと知った人に、今さえ良ければ楽しく生きられれば良いと考えて生きている人に、その考え方は良くないと言う人は多くはないはずである。その人なりの理由や価値観があり、それを知り得た上で判断すべきである。
自分に厳しく、人には優しく
第三に、日本の改変のアリのように、先を見据えて今やるべきことをしっかり行い、我慢や苦労を乗り越えていく事が大切である。その上で困っている人には、たとえ笑われた相手であっても手を差し伸べる事で、その優しさが相手も変えることが出来ることもあるのである。助けられたキリギリスは改心し、次の年から一生懸命働いたようだ。思いやり、慈愛の心は相手に伝わって更には自分の心を豊かにしてくれるのである。
アリとキリギリスという童話を通してみなさんはどう感じ、何を受け取っただろうか。物事を一方的に考え判断していないだろうか。思慮深く考え生きていきたいものである。少しでも今さえ楽しければという言葉だけに囚われすぎない事を願うばかりである。
最後に前者の”今を一生懸命楽しく生きる”という事について、刹那主義という事を紹介したい。
刹那主義から学ぶ
刹那主義という言葉をご存知だろうか。
最近、今が楽しければ良いという生き方を刹那主義的な生き方と使われることがある。また刹那主義と快楽主義を混同して使われている。しかし、本来の意味とは異なっているのをご存知だろうか。
刹那主義とは今、この瞬間の幸せや充実を第一に求め、考えて生きる生き方や考え方。また、一時的な快楽のみを求める生き方を指すこともある。後者の意味合いが最近は強くなってしまったようだ。